2011-07-27 第177回国会 衆議院 外務委員会 第14号
私は、いろいろな人と話したときに驚くことは、関東軍にいた多くの皆さんが、実は今では北朝鮮と言われているところに駐屯しておりまして、そして終戦になったら国境を越えて牡丹江に集結させられた。
私は、いろいろな人と話したときに驚くことは、関東軍にいた多くの皆さんが、実は今では北朝鮮と言われているところに駐屯しておりまして、そして終戦になったら国境を越えて牡丹江に集結させられた。
この中で、日本側が訴えられた三つの事故のうち、黒竜江省牡丹江市で四人が死傷する原因となった致死性イペリット、マスタードガス入りドラム缶サイズ、直径五十センチ、高さ八十五センチだった。これに対して、関連資料や国の現地調査などで、旧日本軍のものかその可能性が高いとされた化学剤ドラム缶は直径四十六センチから四十七センチ、高さ七十一から七十四センチ、一回り小さい。
現在まで、中国各地におきまして発見されております遺棄化学兵器につきまして、平成十二年より発掘回収事業を行ってきておりまして、例えば昨年は黒竜江省チチハル市及び牡丹江寧安市におきまして発掘事業を実施しております。
しばらく仏壇の前に手を合わせておりました後に私が呼ばれまして、そして父から、こうして自分は満州、牡丹江、トラック島と戦線を回って、そしてこうして生き恥をさらして帰ってきたようなものだ、多くの部下たちも亡くした、だからこれからはひとつ私はこの地域の人たちのために頑張って、そして一緒に戦ってきてくれた、そして命を失った人たちの御家庭のために御家族のために働いて頑張りたいと思うので、喜朗、もう父親だと思うなよと
それでハルビンとか牡丹江とか奉天とかへ集中したわけですね。行列ができたわけです。そこで残留孤児の問題等が発生しているわけです。そして現地へ召集された開拓団の若い人や、全部の日本人は、行ってみると銃もなければ何もないということで、竹やりで訓練しておったり、軍服もないというところもあったらしい。
私的な話も織りまぜて申しわけないんですが、実は、私の父も、昭和十八年に満蒙開拓青年義勇隊の神戸中隊長として神戸市内の尋常高等小学校の卒業生、十五歳、十六歳の少年を二百名引き連れて、当時の満州の牡丹江の近くの一面坡というところに入植をしたのであります。
私の方が先生より若干年齢が若いだろうと思いますが、私が生まれたのはちょうど支那事変の勃発したときでございまして、私の父も戦争に行っておりまして、満州の牡丹江におりまして、最後はトラック島に行って、帰ってまいりまして今も元気でおりますが、戦争当時の満州の話あるいはいろいろな事件があるたびに、自分の父親はどうだったろうかなということを考えます。
これによりますと、本部がハルビンにあったわけでございますが、ここに約千三百名、それから支部がハイラル、これが約百六十五名、それから牡丹江約百名、孫呉約百三十六名、林口約二百二十四名、大連二百五十名。約百三十六名とかいうのはちょっとおかしいのでございますが、これは書いてあるとおりに私申し上げているわけでございます。
それから二つ目には、治安不良地区ということで三江省、牡丹江など幾つかの省を特別に指定がしてあります。したがって、治安不良地域にいる日本人、満州人、それから国境接壌地域におきます満州人、日本人、これは全部満州国の法律を実は受けるわけでありますが、軍人以外は全部満州国の法律の適用を受けるんですよというふうに前提条件が変わったわけですから、そういう目でこの法律、規定を見る必要があると思うんです。
そして、ほとんど直ちにでありますが、昭和十三年の七月二十八日に満州国牡丹江省寧安県寧安満州開拓青年義勇隊訓練所第十中隊酒井中隊に入隊、そして一定の訓練を終えて、途中を省かしていただきますけれども、約三年後、昭和十六年十月に今度は満州国東満総省勃利県大東第一次大東義勇隊開拓団訓練所に移行、こうなっております。開拓団にきちっとした訓練所がやはりあったのですね。これは調べていらっしゃいますか。
そうすると、その後一年間は、日本の兵隊さんの傷病兵がおられたから、やむを得ず牡丹江とハルビンの病院で負傷兵の看護をした。ところが二十一年の八月に、看護してあげた負傷兵の方が治って日本に引き揚げることになった。傷病兵を看護してくれと言われたのだから、看護して治ったのだから、みんな内地送還で帰るのだから、当然一緒に帰されるものと思ったら、いや、どっこいそうじゃないという。看護婦さんは帰っちゃいけない。
また、これは高知の上野さんという方の手紙、これも一部だけちょっといまの現状を知っていただく上で読ましていただきますと「敗戦を知るよしもなく、牡丹江を出発以来ハルビン到着まで幾日もやけに降り続いた雨」とともに飢えを忍んで行ってきた、この人はこういうことを書いているのです。
終戦になりまして一年間は、日本の兵隊さんの傷病兵がいましたので、仕方なくというんですか、やむを得ず牡丹江とハルピンの病院で日本の傷病兵の看護をしまして、二十一年の八月、その傷病兵の方が日本に引き揚げるとき、内地還送になるときに、当然私たちも帰さしてもらえると思って荷物をまとめたんですけれども、行く先は別々でした。
終戦時には三千人の職員がおり、支所は孫呉、ハイラル、牡丹江、ミンボー、カエン等にございまして、本隊の編成と業務内容を簡単に申し上げますと、第一部から三部までございまして、それになお、教育部、それから一時診療部がございました。第一部につきましてはペスト、コレラ、チフス、ジフテリアその他の病原細菌の利用と予防の研究、実験を行なったようでございます。
それから旭川では牡丹江その他平壌、そのように大体ソビエトそれから中共そういうような場所からの強い電波がありまして混信を起こしておるという実情でございます。
それで、この奈良の文化と申しますと、ちょうど八世紀に当たりまして、ヨーロッパ並びに西アジアの方におきましてはアラビアが勃興しまして、すこぶる混乱した状態にあったのに反しまして、東洋では、この八世紀は、唐を中心としまして、朝鮮は新羅が八道を統一いたしまして、それから満州にはちょうど牡丹江の上流その他に五つ都がございますが、渤海という国が勃興いたしまして、その間にありまして、日本は大化の改新以来、奈良朝
それで周波数と場所、推定でございますが申し上げますと、六百KCの徐州、六百二十KCの牡丹江、六百八十KCの南京、七百二十KCの北京、七百八十五KCの平壌、千八十KCの平壌、千二百四十KCの瀋陽、千二百六十KCのウラジオストック、千一二百二十KCの済南、大体以上の通りでございまして、このほかに韓国並びに台湾の局が一、二局ございます。推定電力は大体百キロないし三百キロぐらいかと思います。
従って私が中共に参りますときに、それらのまことに当局が不誠意である、何らの誠意を示してくれないという泣き言を聞きながら依頼をされたのが本件でございますが、それによりますと、昭和十八年に応召して牡丹江からたよりがあったので、すぐ返事を出したところが、四十日ばかりしてその手紙は戻ってきた。それから消息がないのだ、こういうのであります。
次に、引き揚げ地点でありますが、ハルピン、大連、臨場、長春、撫順、チチハル、鞍山、嫩江、錦州、寧安、敦化、甘南、牡丹江、密山、北京、天津、上海、唐山、南昌、宜賓、長沙等約五十地点で、大部分は旧満州、一部は中国本上であり、中国の全土にわたるようでありまして、中国紅十字会の宣伝、御努力の跡がうかがおれるわけであります。
北満地区、ハルピン、牡丹江の避難民の多くは、生活困難のため死者続出、日本人居留民会の救済も手ぬるいために、当時八路軍に対抗しつつあった中央軍が近く入京するという状況を聞きましたので、それに応援しまして、それがために、五十八条の八で八年の刑を受けました。六月十九日チタ、イルクーツクを経由しまして エニセイ河ロドージンガより北、クラスノヤルスクより約二十キロのナリンスクに参りました。